どーも、ムラキです。
元釣具屋店員です。
いらっしゃいませー
つり人社から発行された「池の水ぜんぶ”は”抜くな!」を読んだ。
最近何かと話題になる事の多いTV番組になぞらえたタイトルだけど、オレが惹かれたのは帯にある「子供に無益な殺生をさせる事が正義なのか」という一文だ。
難しい問題ゆえに、あまりに知らない事が多過ぎる外来種駆除問題に真剣に向き合ってみた。
結果、スタート地点に立てた気がする。
良かったら最後までよろしくどーぞ。
目次
- お前は何を知っているのか?
- そもそも外来種とはなにか?
- 興味深い話をピックアップしてみた。
- 不勉強という名の害。
- 不勉強の害は、子供の思考への害に繋がる。
- この本はあくまでスタート地点に立つだけ。
- おわりに
お前は何を知っているのか?
本の内容に触れる前に、自分の思い出をひとつ語らせて欲しい。
オレがバス釣りを始めたのは11歳の時、丁度コロコロコミックの「グランダー武蔵」が人気を博した時期だ。
今でも覚えている事がある。
当時の担任の教師がキャンプ等アウトドアの遊びが好きという事で、オレはブラックバスについて嬉々と語ろうとした事があった。しかし、
「ブラックバスは嫌い。日本の魚を食べる悪い魚だから」
と、オレの目も見ず冷たく言い放ち、その話題は終了。子供の頃ながらこう思った。
「あんたは何を知ってるの?」
自分の好きなモノを否定されたことによる反動的感情も多分にあるが、何より担任の一面的な見識によるドライな物言いに、人間としての浅はかさを見てしまった気がした。
それから20年以上が経った今でも、オレは外来種であるブラックバスを釣る。そして、実は外来種の事をあまり知らない。紛いなりとも元釣具屋店員だ。昔より知ってる事は確実に増えたが、それでも知らない事は多過ぎる。
安直に”駆除反対!”なんていう単細胞ではないが、当時の冷淡な担任同様、まだまだ浅はかな人間なのではないか?時々そんな事を思ってしまう。
あの冷淡な担任とは違う、適切な”スタート地点”に立った人間側にいきたい。
そう思って「池の水ぜんぶ”は”抜くな!」 を手に取って見た。
前置きが長くなり申し訳ない、本の内容に触れていこう。
そもそも外来種とはなにか?
恥ずかしながら、この本を読むまで明確な定義を知らなかった。本の内容と一部別のソースから得た情報も交えて整理しておくと、
■ 外来種とは?
もともとその地域にいなかったのに、人間の活動によって移入してきた生物の事。
ここでは、意図的だったかどうかは問われない。人間が直接持ち込んだケースも、海外からの荷物などに付着等して移入されてしまったケースも、等しく外来種となる。
つまり、言い方を変えると人間の手によるものではなく、自力あるいは自然の力で移入してきたものは外来種とは呼ばれない場合が多い。渡り鳥は分かりやすい例だと思う。
外国からの移入に限らず、国内間で元々生息していなかった地域に移入にされた生物も「一般移入種」と呼ばれるらしく、環境省のHPを見るとこちらでは「国内由来の外来種」とも呼ばれているので、外来種と同義語として見て良いようだ。
■ 特定外来生物とは?
”明治時代以降”に移入された外来種の中で、人の生命・身体、生態系へ被害を及ぼすもの、又は及ぼすおそれがあるものの中から、外来生物法に基づき指定された生物。
砕けた言い方をすると「特に人や動物に与える影響はデカいよね」と危惧される外来種といった所だろう。釣人からすると、バスやブルーギルなんかはまさに良い例だ。なので、これらの生物に関しては飼育や運搬等の扱いは法的に厳しく規定されている。
でも何より文言として驚くのは、”明治時代以降”という条件がある事。本の中で最も驚いた事の1つです。
定義一つ取って見ても、知らない事は多いです。
興味深い話をピックアップしてみた。
本書は、様々な観点から外来種の問題に向き合っているが、本質的な根っこの部分は、
「外来種=ワルモノ・・・それって単純すぎるでしょ」
という点に行き着く。
とは言え、脅威となる側面があるのは事実。だからこそ、まずは外来種がどう扱われているかを、どんな影響を与えているか整理してみよう、という内容である。
各章ごとに概要を書くと流石に長くなるので、個人的に興味深いと思った部分をいくつかピックアップして紹介したい。
1.クサガメは実は外来種だった。
長年、クサガメは在来種だという認知だったが、実は研究の結果18世紀後半に朝鮮半島から移入された外来種だったことが分かったらしい。
先述の通り、明治以前に移入された外来種になるので特定外来生物には該当しないし、今まで在来種として見て来たのに今更外来種として白い目で見られることは無いだろうが、少なくともこれからは「在来種だから」という理由で特別視される事も無いだろう。
例えは悪いが、戸籍を見て自分の親が実の親ではなかった事に気が付く複雑な人間ドラマみたいだ・・・
ただ、クサガメは日本国外では激減しているらしく、国によっては保護の対象になっているそうだ。そういう意味では日本にやって来たからこそ、ある程度の数を繁栄させているとも見れるのかもしれない(交雑種も多いらしいが)。
2.鴨川のオオサンショウウオの大半は交雑種
天然記念物でもあり、絶滅の危機にあるオオサンショウウオだが、外来種のチュウゴクオオサンショウウオとの交雑が可能で、簡単に言うと”雑種”の交雑種を繁殖させる事が可能らしい。
京都の鴨川に生息するオオサンショウウオに関しては殆どがこの交雑種で、2011~2014年の調査では在来種は全体の2%程度だったという。
この話だけ聞くと、ヤバイな・・・と思ってしまうし、これ以上交雑が進まない様、調査で捕まえた個体が交雑種だと分かれば隔離する措置も取っているようだ。
ところが。
実は交雑種の生物は多くの場合繁殖力が弱い、あるいは無い場合も多い。別の種同士が交わるとそういう傾向が強いらしい。でも、オオサンショウウオの交雑種がある程度繁殖しているトコロをみると、「コレ実は同種なんじゃないの??」という見方もあるそうだ。
つまり、オオサンショウウオからすると「同じモン同士だし、ちょっとタイプは違うけど、その分自分達とは違う特性を合わせ持った子孫が残せるかもね!」というメリットだってあるのでは、と。
確かに在来種を保護するべきなのは理解できるが、かと言ってある程度繁殖に成功している以上、交雑種を”同じオオサンショウオ”として扱う視点だってあって良いのではないだろうか?
一概に交雑種だから、交雑種を増やす外来種だからと言って、邪険に扱うのは正義なんだろうか?
素人ながらにそう感じた。
3.人間の活動と切り離して生態系を考えるのは無理がある。
外来種の駆除、あるいは在来種を守る活動には「手つかずの自然を取り戻す」という根底があるのではないかと説いている。要は「人間の影響が加わる以前の生態系を取り戻したい」と。
これに対して、生態系とはそもそも人間の活動と切り離して考えるのは不可能だ、と語っている。外来種だけの話ではないだろうと。
護岸整備等による環境の変化は当然だし、逆に田舎に広がる棚田の里山等、人間の造りだした環境があるからこそ生態系を形成してきた生き物だっているのでは、と。
もっと言えば、江戸時代と現代ではやはり生態系は違うだろうし、手つかずの自然って、そもそもいつの事を言ってるのだろうか?
コレに関してはオレ自身昔から思っている。そもそも取り戻したい生態系って、いつの事を言ってるのかと。そもそも、その生態系が正解という根拠は何なのか、と。
ただ、バスやブルーギルに関しては別の観点からの駆除活動でもあるし、この辺に関しては話は別だ。あくまで広義的に見た時に、外来種の駆除活動を「元の自然を取り戻す」という目的にするのは疑問に思う。
不勉強という名の害。
なぜここまで外来種が一方的に悪者扱いされてしまったのか?
その理由として、記者は自分も含めてと付け加えた上でこう挙げている。
「不勉強という事に尽きると思う」
深いため息とともに頷くほかない。
一元的に外来種に諸悪の根源を持っていきたがる、池の水を抜くTV番組の制作側や、一面的にしか見れない外来種の駆除を訴える側だけでなく、我々釣人だってそうだ。
バスやブルーギルに関しては、自分たちの楽しみに関わる事だし、感情的な部分も含めてどうしても安直に”保護”、あるいは”活用”論を訴えがちだ。
結局どっちも安直な感情論でぶつかり合っている。
本書では外来種によっては本当に問題性の大きいものもいること(ヒアリなどが好例)、逆にそこまで害性が大きくないものもいることも書いてあるが、何より必要なのはケースバイケースでの対応ではないか、と説いている。
一律に駆除するのではなく、地域や水域によって個別の対処やコントロールを実施していくべきだ、と。
ブラックバスを駆除してしまったが故に、アメリカザリガニが増えてしまい、結果的に在来種が減ってしまった事例もあるらしい。Aを減らせばBだけが増えるといった、そんなに簡単な話ではないという事だろう。
これらの建設的な対処や思考に至らないのは、”不勉強という名の害”が原因なのは間違いないと思う。
どう考えても1つの外来種を根絶するのは極めて難しいし(金が無尽蔵にあるなら別だが)、逆に”釣りの楽しさを守りたい!”なんて眠たい戯言で駆除やコントロールに反対するのも愚かだ。
生態系に人間の活動が関わらない事があり得ない以上、我々人間側の不勉強こそが、何よりの害なのかもしれない。
不勉強の害は、子供の思考への害に繋がる。
最初に11歳の頃の思い出を書いたが、池の水を抜く安直なTV番組がそれなりに支持されたという事は、20数年と現実は大して変わっていないのだろう。
冷淡な不勉強な大人達が、平気で「子供の為」と称して池の水を抜いて外来種を悪とする。本書にも書かれているが、これは子供たちに対する「外来種は悪い生き物」という洗脳にもつながるのではないか。
誤解を恐れず言えば、「外国人は外来種だから悪」とするような洗脳を正しいとする大人は、今の日本には基本少ないはず。でも言ってる事はほぼ同じだ。
2ちゃんねるの創始者である西村博之氏は、2ちゃんねるの子供への影響について”可能性もあるかもしれいない”、と付け加えた上でこう語っている。
「僕は子供ができたときには「2ちゃんねるを見せない」というフィルタリングをするのではなく、「2ちゃんねるを見せても大丈夫な教育」をしたいと思っています。」
世の中には、嘘も真も、物事にはAの側面もBの側面もある事を教える。
それが真の教育であり、大人が教えないといけない事だろう。
大人の不勉強は、子供の思考への害だ。
この本はあくまでスタート地点に立つだけ。
誤解を恐れずに言うと、この「池の水ぜんぶ”は”抜くな!」は、良い意味で内容は軽い。というのも、実際のページ数で言えば130Pにも満たないボリュームだ。2時間もあれば普通に読める量だろう。
この本はあくまで「外来種=悪って単純すぎるでしょ」という事を様々な視点から語るだけだ。逆の事を言えば、もっと多面的に意見を聞いたり、各方面の立場に立って考えてみないと、本当に必要な対処やコントロールの仕方は見えて来ないと思う。
実際には様々な問題が複雑に絡み合って、外来種の駆除に至るケースも多い。バスやギルだって、釣人のマナー問題、漁師や漁協関係者の事情等もある。他の種にしたって事情は様々だ。
だからこそ「まずは、外来種に対する強い固定観念をフラットにしてくれる」という意味で、外来種問題の適切なスタート地点に立たせてくれる本だと思う。ここに答えがあるわけでもなければ、これで終わりでもない。
だから、バサーは絶対に誤解してはいけない。
「ほらな?バスは悪くないんだ!駆除なんてやめろ!」
と言ってくれる本ではない。何度も言うが、問題に対して適切なスタート地点に立つだけだ。そんな単細胞バサーは逆に害になるから買わなくて良いです。
言い方は悪くて申し訳ないが、事実、そんな簡単な話ではないと思いますよ。
おわりに
本書の中で、コスモスについて言及されている箇所がある。言うまでも無く外来種だ。今ではすっかり日本に馴染んだかわいらしい花です。
さだまさしの曲にも「秋桜(コスモス)」という作品があるが、実はさだまさしの書いた小説にも「秋桜(あきざくら)」という作品がある。
ストーリーを簡単に説明すると、日本に出稼ぎにやって来たフィリピン人の女性が日本人男性と結婚し、一緒に暮らす旦那の両親(舅と姑)や近隣住民たちとの偏見に向き合う・・・といったものだ。
長くなるので詳細は割愛するが、ある時、彼女に対する偏見を口にした近隣住民の一人に、姑は猛烈に怒り、家まで押しかけて怒鳴りつけ、必死に嫁の事を守った。
帰宅した姑は、庭に咲くコスモスを指差して嫁に語った。
「コスモスはメキシコが故郷。藁ぶき屋根の庭先にあの花が咲いていても、誰もあの花がメキシコの花だと思わない。コスモスは大切な立派な日本の花だよ。お前もコスモスになりなさい。」
どんな経緯があろうと、外来種は日本にやって来きた命。彼らなりに必死に生きているのだ。
共生していくにせよ、やむなくコントロールするにせよ、コスモスのように大切に接していくべきではないか。
「手を加えさせて欲しい。それでもそこにいていいから」と。
偏見や感情論に惑わされない、適切なスタート地点に立ちたい人には一読して貰いたい。